


月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとのみにして(第四段)
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人知れぬわが通い路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ(第五段)
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白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消へなましものを(第六段)
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いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな(第七段)
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信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ(第八段)
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その二は、第四段から第八段まで。各段一首ずつで、計五首。
伊勢物語はジャンルとしては歌物語で、和歌を中心とした短編で構成されている。そのジャンルの特性から、各段の本文における和歌の占めるウェイトは大きく、これに旋律を付けることは、独特の意味を持ちうるのではないかと思う。即ち、次のような本文に旋律を実装させるということになる。
第七段
むかし、男ありけり。京にありわびて(住みづらくなって)あづまに行きけるに、伊勢、尾張のあはひ(あいだ)の海づらを行くに、浪のいと白く立つを見て、
いとどしく過ぎゆく方の恋しきに
うらやましくもかへる浪かな
となむ、よめりける。
これは文学であるけれど、歌物語であるから、半分は文学で半分は歌である。歌は音楽であってもよい。和歌というものは、文学的価値を持った芸術であるけれど、その形式(57577というリズム的な型)は独自の音楽的特性を有しているとも言える。なぜなら拍(拍子)を持つということは、文化を問わず音楽の基礎的な要素ではあるのだから。
昔は紙は貴重だったし、『古今和歌集』を始めとする勅撰和歌集以前に成った『万葉集』では、詠み人しらずの歌が多く収録され、歌い手の身分も貴族とは限らないことなどから、和歌というものが文学であると、現代の感覚でもってことさら考える必要もないように思われる。
以上のような意味合いで、旋律が実装された歌物語とは如何なるものであるか。これを実作していければよいと思う。
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